Histoire d'O selon Oraclutie

『O嬢の物語』を読む - 「ロワッシーの恋人たち」
第5回, Une autre version du même début était.

最初の3つの段落が終わると、空白行があり、新しい部分に入っていく。「本文の構成について」のところでこの単位を節と名づけたが、第2節は、

Une autre version du même début était plus brutale et plus simple.
この冒頭の別のヴァージョンはもっと乱暴で単純であった。

と別の展開の冒頭部を提示することで始まる。

最初のころこの2種類の冒頭を読むたびに私がいつも思い浮かべていたのは、芥川の『薮の中』、黒沢の映画『羅生門』である。同じ事件が異なる当事者によって語られるたびに違う物語になる。そして、1954年出版のこの作品に、実際に『羅生門』(ベネチア映画でのグランプリ受賞が1951年10月)がなんらかの影響を与えたとも一時は本気で推測してみたりもしたが、この2つの冒頭部が1951年春にすでに書かれ、『O嬢の物語』全体もその年10月に出版可能な状態に完成したいたことを知っている今、それは当たらなかったと言わざるを得ない。が、『薮の中』=『羅生門』の話しは脇においても、第1の冒頭が、ロワッシーでの経験を経た後のOの立場からみればこうなるだろうという理想化された物語(ロワッシーでの規則を先取りするように、Oは自らあえて脚を組んだり、膝を閉じあわせたりさえしない)、第2の冒頭が、OがOになる前の普通の若い娘として振る舞うとしたら現実的にはこう展開するだろという物語として、2種類の冒頭が提示されているというような解釈はそう的外れでもないだろう。

問題は、小説の中に作者が介入してきて、2種類の版について語るその意外さ、唐突さである(最初にこれを読んだときに、思い出したのは吉行淳之介の『砂の上の植物群』(1963年)でやはり、通常の小説に作者が顔を出し、タイトルを決めるくだりである)。その唐突さを和らげるために、既訳は、「別の書き方をすれば、この同じ事件の発端は、」(澁澤訳)、「この同じ事件の冒頭にべつの解釈を下せば、」(鈴木訳)、「この同じ出だしを、別の書き方をすれば、」(長島訳)というように意訳している。が、私はこの解説の冒頭に示したように素直に訳したい。その理由を以下に記す。

1969年に出版された『ロワッシーへの帰還』」に作者(P.レアージュ=D.オリー)が付した序文『恋する娘』にある、『O嬢の物語』の誕生についての記述をそのまま信じれば、彼女は、執筆に取りかかかかった最初の一夜(1951年春)の間に、出だしの二つの異なったヴァージョンを一挙に書き上げたという。その原稿を出版するつもりはなく、恋人のJ.ポーランに見せるためだったとオリーは言うが、だとすれば、全体的な構成を顧慮せずに、筆のおもむくまま2つの版を書き上げたと、考えてもおかしくない。そして、その2ヴァージョンの並列(への言及)がが最終的な作品になる際も、維持されたと。作品中での作品成立についての作者の自己言及的な介入は、ローレンス・スターン、E.T.A.ホフマンですでにお馴染みでのものである(作者の同時代の文学的影響圏からもっと直接的な流れが指摘できるのかもしれない、またJ.ポーランの好みかもしれないが、その辺りの議論は私の知識には余る)。

次の問題は、この冒頭部第2ヴァージョンが、今ある文章そのものかどうかということである。というのは、ここでは、第2ヴァージョンは、「もっと乱暴で単純であった」という導入のあと、コロンで繋がれ、概要のように提示されているからである。"plus brutale et plus simple : la jeune femme pareillement vêtue emmenée en voiture par son amant ..." 私はここも、作者の書く額面どおりに読みたい。つまり別に書かれた(より単純で乱暴な)第2のヴァージョンがあった、そして作品として確定する際に、その要約だけが、現在のような形に書き直され、このような断り書きのもとに提示されていると。自己言及的な割り込みを含んだ現在のような手のこんだ形で作品を構成することを最初の段階から目論むためには、理論的な反省が必要であるが、作者の語る成立の経緯はそれとはなじまず、またそうした冒頭の部分だけのそういた作為的仕掛けは、この作品の全体的な構成からみても必然性がない。

さてその第2のヴァージョン。第1ヴァージョンと対応する時間的な流れの部分は、車を運転している見知らぬ男がこれから恋人がOに対してするであろうことして説明する間接話法の語りで処理され、途中から、第1ヴァージョンで中断していた、物語の本線へと一気に流れ込んでいき、いつのまにここで設定された状況が本線の地位を獲得する。

En effet, une fois ainsi dévêtue et liée, au bout d'une demi-heure de route, on l'aidait à sortir de voiture, on lui faisait monter quelques marches, puis franchi une ou deux portes toujours à l'aveugle, elle se retrouvait seule, son bandeau enlevé, debout dans une pièce noire où on la laissait une demi-heure, ou une heure, ou deux, je ne sais pas, mais c'était un siècle.

今や本線の展開は車の中で目隠しをされて連れ込まれる彼女を前提としている。ここまでどの邦訳にも読みの上は問題ないが、文体上かき消されているのは、今度は目撃者、語る主体として介入してくる作者=私である。

「彼女は30分か、1時間かあるいは2時間か、私にはもう分からない長い間ほうっておかれ、それは1世紀にも感じられた」

要約的なスタイルで、半過去を使って始まるこの第2冒頭部は、本線に入っても、しばらくは一貫して半過去を維持しながら、すべての出来事が状況の報告的描写の枠に収められる文体へシフトしていく。その文脈で、この場所で初めて作者が je で現われる。城の中のできごとに見えない目撃者として立ち会っている作者としての私がいる。そうかと思うと、その直後には、c'était un siècle, と、Oの回想であるはずのものを語る作者がいる。作者の視点はOの外と中を常にゆれている。その視点はまた次の文で違うほうにすべっていく。

Puis, quand enfin la porte s'ouvrait, et que s'allumait la lumière, on voyait qu'elle avait attendu dans une pièce très banale et confortable et pourtant singulière.

「ようやく扉が開き、明かりがつくと、彼女が待っていたのは、きわめて平凡で居心地のよいしかし奇妙な部屋だということが分かった」

視点は on 、作者と視線を共有しながら現場に連れ込まれるわれわれのものになる。

部屋の様子がわかるようになったのは、二人の女がドアを開けたからだ。"Deux femmes avaient ouvert la porte."

そして、この第2節めの第一の段落は、18世紀の小間使いの格好をしたこの二人の娘の服装の描写で閉じられる。レジーヌ・ドゥフォルジュとのインタヴュー On m'a dit で作者がその偏愛を語り、この小説を通してお馴染みの、胸を押し上げるコルセットを備えた長いドレス。そして、ぴっちりとした首輪と腕輪。ここでの澁澤訳はエレガントで要を得ている。



4. 《Voilà》, dit-il tout à coup ...
6. Alors je sais qu'elles ont défait les mains d'O ...



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