Site Oraclutie
Msg 40 from Oraclutie BBS (jp)

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MSG: 40 on Sun 04 May 2003 01h52(CET) by Autel
Subject: 改行のさじ加減

サイト「文字の味方・文学の味方」の松本さんの「独演掲示板」の最新書き込みのテーマは(翻訳における)改行。私自身も、このサイトで『O嬢の物語』を扱ったり、文学的テキストの翻訳を載せたりしてるうちに意識的にならざるを得ない事柄であり、いつか書いてみたいと思っていた。

翻訳に際し、表面的な読みやすさを犠牲にしても原文のパラグラフ単位を絶対に遵守すべしという純正主義的立場を−−少なくともこのサイト内の枠内でという限定つきでいえば−−私もとっていない。ほんとうはつっぱって原文の構造を維持したほうがいいかとも思うこともあるが、楽しみで読むものである以上、最初から読む気を失わせるような外観は避けたほうがよいという配慮が優先する。

ドミニク・オリーの文は『O嬢の物語』だけでなく、書評でも一段落がかなり長い。構造的思考が希薄なために一段落がやたら長い(つまりだらだら書いているだけで、疲れたときに改行するというような)タイプの書き手もいるが、彼女の場合は、逆に、彼女自身の論理的思考がそうさせているのは明らかだ。対談 Vocation :Clandestineの中で、リセの進学予備クラスのときの作文の教師に、論理的必然性がないのに気分で改行してはいけないと強く戒められたという内容のことを語っているのを読み、そのとき植え付けられた改行に対するストイックな態度が、あの段落の長い文体に結びついているのか、と納得したことがある。

私自身はそこまでストイックになれず、このサイトでの翻訳のときも原文にくさびを入れたりする。くさびを入れるときは心が痛まないではないが、結局のところは、論理的レベルで適当に自分の中で正当化しながら場所を選び、見た目で按配していることになる。本で言えば1ページに適当に横長、正方形、縦長のブロックが並ぶという外観を想定しながら。自分自身の文章を書くときは逆に論理構造をそうした見た目に合わせていることもある。

ただしこの見た目というのが曲者だ。というのは、書いているときの視覚的条件は必ずしも一定でなく、さらには読むときの視覚的条件がまた、書いているときの条件と一致しないばかりか、一定でないということだ。

原稿用紙というものがあったころ、200字詰から800字詰めまでの原稿用紙を試したことがあるが、当然予想されるように後者のほうが一段落が長くなる。これと同様のことががコンピュータで、特にインターネットに載せることを前提にして書くと、さらに決定的に起こる。1年ほど前、自分の機械のモニタを大きくし、解像度を上げたが、そのことによって画面上の文章に対する視線がより俯瞰的になり自分の文章の段落も長くなった。そういう条件化で書いたものを、解像度を下げた別の画面やフォントサイズを上げた設定でで見ると、自分の文章の段落がやたら長く感じることがある。が、結局のところ自分がいちばん馴染んだものの中で視覚的に最も気持ちのよい按配に収まっていくものだ。そして、こうして書かれたネット上の文章は、それぞれの人間がそれぞれ異なる眼鏡で見ている訳で、段落の長い短いの判断は一般に言えない。同じ文章でも、例えばこのサイトの場合、通常のページに載せる場合と、若干幅を狭めたこのBBSでの場合とで、同じ字数の段落でも、視覚的印象に伴って長さに関する感覚が変わる。このサイトではテキスト領域の横幅はすべてウィンドウの大きさに対してプロポーショナルに設定しているので、どの大きさのウィンドウを開くかによっても変わってくる(いずれにしてもこの場所だとこの段落この辺が限度か...)。

結局は各自がそれぞれの嗜好、それぞれに置かれた条件に従ってさじ加減を選び、好き嫌いもさまざまな条件に規定されているという平凡な結論となるが、最近気になる現象が一つ。

最初に述べたように適当に改行することで文章を(それぞれの按配で)見やすくすべしということに私自身積極的に組するが、ネット上の文章であまりに頻繁な改行、というよりも徹頭徹尾、一文ごとに改行というスタイルが増えているのには閉口する。最近あるSMサイトで、書いてあることはなかなかに面白いのだが、読むたびに頭のどこかにゴツゴツと当たって、すっと理解できないという文章群があって、なぜだろうか自問したとき、すべて一文ごとに改行してあるのに気がついた。段落という手段による分節のレベルがなくなっているわけで、その効果は、まったく改行しないで書いてあるのにほぼ等しい。いきおい、書き手の思考方法も、文より上のレベルでの論理的構造化をとらないことが常態化していることになり、メモ的雑感や、こうしたBBSでのちょっとしたメッセージならいいが、人生哲学、文明批評のような文章にこれが適用されると、読んでいてかなりつらい。

こうしたことが、個人サイトの傾向だけかと思っていたら、プロのジャーナリズムの世界にも入ってきたことに、ごく最近気がついた。イラク関係で一時憂さ晴らしに読みに行っていたイギリスのDaily Mirrorのネット上の多くの記事がほぼそのスタイルで、いくらいわゆる「大衆紙」とはいえ、メインストリームのマスコミにそれが入り込んでいることには驚いた。特にこのテーマで検索はしていないが、たぶん私のような思いを抱いている人は少なからずいるのではないかと想像する(それとも私のひとりよがりか?)。