MSG: 1
on Thu 12 Jun 2003
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Autel
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URA Note
URAノートです。
何がURAかというと、Oraclutieサイトでは性愛やBDSMが表の話題なので、それ以外の主題を指します。
ことばや文学その他諸々の話題についてOraclutieサイトで書けないものを書いていきます。
基本的には日記のように運営しますが、コメントの書き込みはBBSのように自由なので、ご遠慮なく。
MSG: 2
on Thu 12 Jun 2003
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Autel
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ことばの買い占め
松本さんのサイトの独演掲示板で教えてもらったかぐら川さんの日記サイト
めぐり逢うことばたちを最近読みに行っている。ことばに対するいきいきと繊細な感覚でつづられていくその文章はどれも読んでいて楽しい。
2003/06/06 (金) の条、「『ことばの独占』という暴挙」で、角川書店グループが「ボランティア」「NPO」などの語を商標 登録していることを知った。
同じような話をしばらく前にフランスの小説で読んだのを即座に思い出した。
広告代理店にいながら業界の内情暴露の作品を書いてマスコミの寵児となったフレデリック・ベグベデ Fredérique Beigbéder の『14.99 Euros (旧題 99 francs)』(Grasset, 2000)( 邦訳題は『999円』)の中のこういう一節(広告代理店 の同僚どうしの会話だ) −−
「ほら、あれ思い出すなあ、あれさ....オクターヴ、バリラの仕事憶えてるか?おまえさんが我々に『幸福』って言葉の入った ベースラインを提案したときのことさ」
「ああ憶えてるよ....法律事務所から不可能だって説明された、あれだろ?」
「そう!なぜなら『幸福』って言葉はネスレの登録商標だから!!
幸福はネスレのもの」
「別に驚くようなことじゃない。知ってるか?ペプシはブルーを押さえるつもりなんだ」
「まさか」
「いや、ほんとの話だ。奴らブルーって色を買収するんだ。ブルーの所有者になる........」
企業の実名入り出て来るものの、半信半疑で読んでいた文章でとりたてて確かめはしなかったが、角川の件を読んだいま、あ りそうなことだと思えてくる。
上の引用はたまたま手元にあった邦訳(中村佳子訳)だが、出版元がその問題の
角川書店。なるほど...
(kanjikan さんのサイト
フランスの島の掲示板(こちらもよろしく)に書き込んだものですが、URA Note スタートの景気づけに転用してみます。)
MSG: 3
on Thu 12 Jun 2003(CET)
by Autel
Subject: Comment to 2
上のベグベデの本の引用の原文
-- Tiens, ça me fait penser à un truc ... Octave, tu te souviens sur Barilla, quand tu nous avais proposé une baseline avec le mot "bonheur" dedans?
-- Ah oui... Le service juridique nous avait expliqué qu'on ne prouvait pas, c'est ça?
-- Oui! Parce que le mot "bonheur" est une marque deposée par Nestle!! LE BONHEUR APPARTIENT A NESTLE.
-- Attends, ça ne m'étonne pas, tu sais que Pepsi veut déposer le bleu.
-- Hein?
-- Ouais, véridique, ils veulent s'acheter la couleur bleue, en être propriétaire, ....
Fréderique BEIGBEDER (Grasset, 2000), pp. 138 - 139.
MSG: 4
on Thu 12 Jun 2003
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Autel
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バカロレア
教職員のストで中止、混乱も一部に懸念されていたが、正常に行われる。中止となれば68年以来で、大学の新学期もまともに始まらないという大事態になるところだったが、いくらストに連帯心の強いフランス国民でも80%近くがこのストには反対とあって、一部の強行な教職員組合の脅しも張り子の虎だった。今年の受験者は 626,899人。125,836の教員が採点員として動員されるそうな。
哲学論文の問題はいつも話題になるが、例年パターン化している。学区・進学系統によって違うが、今年のは
- 対話は真理への道か Le dialogue est-il le chemin de la vérité ?
- われわれが美に敏感なのはなぜか Pourquoi sommes-nous sensibles à la beauté ?
- 全面的な自由という概念に意味はあるか L'idée d'une liberté totale a-t-elle un sens ?
等々
MSG: 5
on Thu 12 Jun 2003(CET)
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Autel
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follow-up to 4
kanjikanさんの
USOノートを覗いたら、同じ話題を取り上げておられた。きわめて身近に受験者がいると関心のもちかたも切実なものだろう。
試験日からすぐにインターネットやミニテルで模範解答を見せてくれるサーヴィスがある。たいてが有料なので覗いたことはないが、ル・モンドが購読者にサーヴィスしているのを見つけたので覗いてみる。それぞれの問題に対し細かいプランといろいろなアドヴァイスを提示してくれている。
上の最初の「対話は真理への道か?」に対しては、やってはいけないことに
- 問題に使われている語を字義だけ単純に理解すること(「対話dialogue」 は 弁証法 dialectique に 「道 chemin」は方法 methode に「真実 vérité」は価値 valeur に関連する)
- 「道」の概念に「探求」すなわち科学的概念が含まれていることを見落とすこと
- 討論と知的対決の中に合意の条件として公共圏の次元があることを忘れること
があげられている。
そして援用・引用したほうがいい文献に
- プラトン『メノン』
- コイレ『科学思想史研究』
- ハーバーマス『公共性の構造転換』
があげられている。
こういうバカロレア受験用の模範解答集や参考書をみていつも疑問に思うのは、17,8歳(最年少は13歳)の若者が、こうしたリフェランスをソラで自由自在に使いこなした解答を本番で書けるのだろうか?ということ。こういう試験をかいくぐって来たはずの若者(超エリートは別として)の話すことばと、恐ろしくハイレベルの模範解答の間には謎の地帯がある...
MSG: 6
on Sat 14 Jun 2003
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Autel
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大洪水
外出中に夕立。ほんの短時間だがどしゃぶりになった。少し涼しくなって嬉しいが、問題は窓を開け放しにしておいたこと。普段窓を開け放ったまま外出することはしないのだが、雨など降りそうもない模様だし、ほんの短い間の外出なので、猛暑のおり少しでも風とおしをよくしようと思っていたら、見事にやられた。帰宅してみると窓際のサイドデスクの上の一部が、吹き込んできた雨で大洪水。積んであった本が何冊か被害にあう。最も水害を蒙ったのは何かの用で参照したまたまそこにあった聖書。
私は宗教心からは程遠いのに、本棚に聖書がいつのまに何か国語かとりまぜて2ダースほどある。何の分野にせよ本を読んだりなにか翻訳するさい、聖書の引用やほのめかしに出くわすことが多く、言語や文体や解釈の違う版を参照したくなることもある。そのため、だいたいは古本屋で二束三文の買ったものが多いのだが、気づいたらかなりの冊数がたまっていた。もっとも今はインターネットで読める版も多いのであえて買うことは少ない。
で、今回被害にあったのは日本から持ってきた「新共同訳」版。薄い紙が水を吸って全体がぶくぶくに太っていた。日本語で最も標準的に引用する版がこんな状態になったのは残念だが、それより遠くない場所に置いてあった別の版が無事だったのは(「新共同訳」には悪いが)不幸中の幸いだった。
無事でほっとした別の版とは、私の最近のお気に入りで、しかも出版時から私がそれを欲しがっていたことを覚えてくれていた R*** が2年前の誕生日のプレゼントに贈ってくれた
La Bible, Nouvelle traduction (sous la direction de Frédéric Boyer, Paris, Bayard, 2001)。聖書学者と作家・詩人がチームを組み、学問的な正確さだけでなく、聖書の文学的な側面を最大限に配慮した新訳として発売当時大いに話題になり、かなりのベストセラーとなった。聖書学的なレベル云々はもちろん私には判断できない(注釈は丁寧であると同時に基本概念に迫るもので素人にも興味深い)が、確かに文学的な配慮が大胆に為されているのは、特に既訳と対比するとき、はっきり分かる。聖書の各章でまったく文体が違い、解説に示されているそのテキストの性格を、訳文のレベルでいきいきと伝える。
たとえば、「創世紀」冒頭 −−
Premiers
Dieu crée ciel et terre
terre vide solitude
noir au-dessus des fonds
souffle de dieu
mouvements au-dessus des eaux
Dieu dit Lumière
et lumière il y a
Dieu voit la lumière
comme c'est bon
Dieu sépare la lumière et le noir
Dieu appelle la lumière jour et nuit le noir
Soir et matin
un jour
明確に詩として訳されており、きりつめられた文体は、古代的とも現代詩的ともどちらともいえそうである。ヘブライ語の原典を知っているある友人は、(伝統的な解釈をとる)自分にはなじまない語釈も多いが、文体については非常に興味深いと評していた。参考のため手元にあるもう一冊の既存訳 (La bible en français courant, Allance biblique universelle, 1982)ひいておく。
Au commencement Dieu créa le ciel et la terre.
La terre était comme un grand vide, l'obscurité couvrait l'océan primitif, et le souffle de Dieu agitait la surface de l'eau. Dieu dit alors : «i;Que la lumière paraisse! »i; et la mumière parut. Dieu constata que la lumière était une bonne chose, et il sépara la lumière de l'obscurité. Dieu nomma la lumière jour et l'obscurité nuit. Le soir vint, puis le matin; ce fut la première journée.
MSG: 7
on Sat 14 Jun 2003(CET)
by Autel
Subject: Premiers / Dieu crée ciel et terre
上に引用した La Bible, Nouvelle traduction の「創世紀」の部分、あまり上手にはできないが、こんな雰囲気ということで訳してみる。
最初に
神、空と地を造る
地は独り空虚
底の上には闇
神の息吹
水の上の動き
神は言う「光」
そして光がある
神は光を見る
よきものかな
神は光と闇を分かつ
神は光を昼、闇を夜と呼ぶ
夕そして朝
一日
大洪水にあった新共同訳のほうから引くと、
初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。
「光あれ。」
こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光をと闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
MSG: 8
on Tue 17 Jun 2003
by
Autel
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C.バティスタ『ある翻訳家の祈祷書』
行きつけの本屋の新刊コーナーで、Carlos, Batista,
Bréviaire d'un traducteur (Paris : Ed.Arlé, 2003)なる本を見つける。100ページ足らずの薄い本。タイトルのla bréviaire は正しく訳せば「聖務日課書」。
翻訳という活動に関して、数行からせいぜい1ページの短いアフォリズムや引用、小話、逸話を集めたもの。1968年生まれでポルトガル語−フランス語の翻訳家だという。若く、しかも近親の言語間の翻訳者が翻訳についてアフォリズム集をだすほど深い洞察があるのか、と思わず先入観で判断しそうになりながらも立ち読しているうちに、なかなかに引込まれてしまい、結局買う。読む進むうちに、翻訳の難しさというのは近親の言語間でもないがしろにできないものがあること、他の言語の組み合わせと共通の、あるいはそこに独自の悩みもあるというのが見てとれる。
章だて : 1.愛する技(l'art d'aimer)、 2.裏切りの技(l'art de trahir)、 3.誘惑の技(l'art de séduire)、 4.逃亡の技(l'art de fuir)。
巻頭になかなか含蓄のある小話
自分の訳する本の著者に首ったけのある女性翻訳家が、著者のところへやってきて扉を叩いた。
扉の向こうで著者が尋ねる。
「誰だ?」
彼女は答える。
「私です!」
すると、著者の声。
「この家には、君と私がいる場所なぞない。」
翻訳家は図書館で、そして夜は酒場であれこれ思索をめぐらし、数か月後、最愛の著者のところへもう一度扉を叩きにやってきた。
著者は問う。
「誰だ?」
「あなたです...」
と、扉がそっと開いた。
MSG: 9
on Thu 19 Jun 2003
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猛暑
暑さのせいか、この数日、大げさな抽象概念や心理的用語がべたべたとくっついているような文に拒否反応。『O嬢』はその心配はないのだけれど、一年中そればかり読んでいるわけにもいかない。
立ち読みだけで、まともに読んだことのない Francis Ponge の
Le parti pris des choses (邦訳題は『物の味方』)が無性に読みたくなって、本屋に走ったのが二日前。ひろい読み。それなりに堪能した。Googleで日本語ページを調べるといろいろ出てくるので付け焼き刃で私が紹介するのはやめたほうがよさそうだ。冒頭の「Pluie 雨」を読んでいるときに、何故か、子供のときカタツムリの動く様子をじっと観察した経験を思いだしたが、後のほうに実際に「Escargot カタツムリ」という文もあった。逆にこちらのほうでは、自分のカタツムリ体験がナマに喚起されることはなかった。テーマによっては、前に思ったほど即物的に徹底した文章ではなく、ラ・フォンテーヌの『寓話』やルナールの『博物誌』を思いおこさせる、かすかだが、モラリスト風のほのめかしが出てくると、(今探しているものの関連からいうと)興ざめする。
ついでに、ポンジュの『
Le savon石鹸』なる別の本も手にいれる。物中心という面では Le parti pris ... と軌を一にするが、「文体練習」の要素も多い。
なんでもいいから、「物」や「運動」をもっと、純粋に、教訓も心情の投影もなく、メカニックに、精密に分析的に、がゾラのようにどろくさくなく、エレガントに美しく、涼しく書いたものはないか...
MSG: 10
on Thu 19 Jun 2003(CET)
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follow up to 9
岩波文庫で何分冊かになっている寺田寅彦の随筆集の1、2冊がどこかに積んであったはずだと思って探すが、発見できず。
その代わりダーウィンの『ビーグル号航海記』に思いが至る。岩波文庫(島地威雄訳)が手元にあるのと、原文は
http://www.literature.org/authors/darwin-charles/the-voyage-of-the-beagle/
で心地よく読める。
以前は調べものに使っただけで、頭から読むとすぐに退屈していたのが、今はやたらと面白い。特に、当時退屈の極みだった博物学的記述を探しながら読んでいるという変わりよう。しかも、今の欲求から言うと、それでも客観的記述部分が足りない...記述を粘る前に割りとあっさりと「なぜ」の問いのほうにシフトしていくからだ(科学文献なのだから当たり前なのだが。多分、寺田寅彦の随筆が見つかっていたとしても、同じだったのだと思う)。
なんだかんだ言いながら、おいしいところだけ読みながら、あとは軽く流す、インチキ通読。今まで気に留めていなかったが、行く土地土地の住民や社会生活についてのダーウィン自身の論評がかなり出てくる。奴隷制度の悲惨さに対する告発をこめた記録、慷慨がくり返される。
『航海記』に初めて、全ページ目を通すことができたものの、結局、とにかく即物的で精密で涼しい文章さがしという目的は100%達成できなかった。こうなったら博物学のもっと専門的な論文でも読むしかないかと思っているうちに、気温のほうが下がり、涼しくなってきた...
MSG: 11
on Fri 20 Jun 2003
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Cahier de R
URAノートの向こうをはって
Cahier de R がスタート。
あちらは、日付けの新しいものを上にしたいということで、スクリプトを手直し。こちらも逆順にしようかとしばらく考えてやめる。通常の掲示板とは逆だが、文章といっしょで、上から下への流れに慣れてしまったので。
一発で最新メッセージに行きたい場合は、
http://www.oraclutie.org/journalb.php#last
のように #last (最新書き込み)をポイント指定したURLをブックマークしてください。O嬢掲示板、メインサイト掲示板でも有効です。
MSG: 12
on Fri 20 Jun 2003
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フランスの島の掲示板
kanjikanさんのサイト、
フランスの島に
私たちが管理をまかされている掲示板がある。主題の性格やそこにいたった話の流れによって、そちらで展開しているものや、積極的にそちらに書いているものもある。
以下は2日ほど前に書いたものだが、こちらとも関連するので風とおりをよくする意味でもメモ。
-詩の翻訳、松本さんの掲示板の書き込みに関連して トピック
なんでも で。
-O嬢の物語の新版の誤植について、小さな謎が解決。トピック
Oraclutie の余白からで。
MSG: 13
on Fri 20 Jun 2003
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F.チェン アカデミーフランセーズ
フランソワ・チェン François Cheng のアカデミーフランセーズへの入会(入院?)式が昨日あったと、ル・モンドのネット版で知る。
ル・モンドからPDFで提供されている本人の入会演説を読む。中国とフランスの共通点としてその中華思想がよく指摘されるが、そのことが、両方の文化を一人の中にになう当事者の口から、アイロニーも照れもなく語られるのに、少し違和感を感じるのは、辺境の国からやってきた人間のひがみか。フランスを西ヨーロッパの pays de milieu と呼び、中国文明の普遍化的性格を語ったあと、フランス語の「普遍的性格」を語るのは、社交辞令か出自に対する矜持かなどと詮索するのは、下衆の勘繰りというもので、本人はいたって純粋なのだろうなと思う。自己の文明の普遍性に対する確信を背伸びせずとももてるのは強みではある。
あとから獲得した外国語を活動の主要な言語とすることについて、次のようなことはよく聞く話ではが、それを徹底した形で生きた本人の口からだと、重みがある。
「フランス語は、私の出自の文化や自分自身の直接の体験に対して距離をとらせてくれ、同時に、すべてを考え直すことへの、そしてそのすべてを、明晰な再創造への行為へと変化させることへの性向を私に与えてくれました。フランス語は、私を過去から切り離すどころろか、その過去を担うことになったのです。」
が、それに続く「その内在的な特質により(par ses qualités intrinsèques)、フランス語は、私に、言い回しにおいていっそうの厳密を、分析においてはいっそうの繊細さを要求しました。」というのは、どうか。今までとは違う厳密さや繊細を要求されるのは違う眼鏡をかけるからであって、なにもフランス語固有の内在的特質によるものではないと、私は思う。
ピエール=ジャン・レミの歓迎の辞も同じくPDFファイルで提供されている。冒頭のほうで、チェンのやってきた道を「中国の最東端からヨーロッパの最西端まで à l'extrème ouest de l'Europe」と言うが、これを、チェンの pays de milieu ということばとくらべると、ちょっと面白い。まさか皮肉でもあるまいに。歓迎の辞の中にチェンのフランスでのキャリアの長い説明。無名の中国人青年がどうやってパリの知識人社会、アカデミックな世界の中に引入れられていくかがわかる。
MSG: 14
on Sat 21 Jun 2003
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F. Cheng
- F.チェンのアカデミー・フランセーズ会員選出を記念して出版された自叙伝的な小さな本については、
Oraclutieサイトに2か月ほど前にアップしたページで触れたことがある。チェンがアカデミーに選出されたのは去年の今ごろの時期だから、昨日の入会の式まで1年あるということになるが、これがしきたりなのだろうか。はじめて知った。この1年の期間とはいうのは何を意味するのだろうか。入会時の演説がいくら重要とはいっても、準備期間としては長すぎるように思える。保護観察期間というわけでもあるまいに。かなりの高齢で選出されることが多いから、その間に亡くなるという可能性、いや実際の例もあったのではないか?と人ごとながら気になる。
- F.Cheng はどう発音し、カタカナではどう表記するのだろうか。類似の中国名に準じた日本での順当な表記は「チェン」だろう。ただし、本人はTVで「シェン」と発音していたように聞こえた。多くのフランス人がgまで発音して「シェング」「チェング」という。中国語のpinyin表記の「母音+ng」は、英語との類推によるもので、フランス語の鼻母音にも近く、フランス人なら鼻母音で発音すれば、内破のある「母音+n」と区別されて自然な発音になるはずなのに、わざわざ「g グ」とつける−−ベイジング(Beijing)、オンコング(Hongkong)−−のは耳障りだしこっけいだが、一度、文字表記(の誤解)を通して広まった発音はなかなか改まりそうもない。
MSG: 15
on Sat 21 Jun 2003
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外国人名の発音
外国人名の発音にたいしてはそれでも、フランス人、というよりフランスのマスコミは近年、原音に敏感になってきたように思える。
前回のワールドカップで、アナウンサーが、ドイツチームの Schneider を「シュナイデル」と呼んでいて、あれ?と思ったことがある。日本語表記の「シュナイダー」ならもっと近いと思うが、少なくとももっと以前には、完全にフランス式にシュネデールと呼んでいたはずで、それよりははるかな進歩(?)ということになる。この姓はドイツ系のものとしてフランスにもみかけ、フラン人の姓としてはフランス語化した発音で「シュネデール」と呼ぶのが普通だから、もしフランスチームにそのSchneiderがいれば、フランスチームのは「シュネデール」で、ドイツチームのは「シュナイデル」なのか、もっと一歩進めて、たとえばParis SGに、ドイツからきたSchneiderと、フランス出身のSchneiderがいればどうなるか...などと、想像してしまう。
同じサッカーで、98年のワールドカップではオランダの Cocu という選手が最初の何戦かの間は「コキュ」と呼ばれていて、途中から「コクー」になったという記憶もある。
有名になると原音が気にされてくるというのもあるようだ。Walter Benjaminについて、「昔は専門家以外は、皆『バンジャマン』と発音していたのに、やっと近年『ベンヤミン』に格上げになった(そのくらい知られてきた)」と皮肉まじりにある哲学教師が言っていた。一方、日本ならだれでも「ルカーチ」と発音する Georg Lukács を、あるアカデミックな集まりで、参加者全員が一貫して「ルカックス」と呼んでいて、ぎょっとしたことがある。
MSG: 16
on Sat 21 Jun 2003
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フランス人名の発音でも
人名のもともとの発音に敏感になったというのは、外国語音だけでなく、フランス国内の地方のことばでの発音というものにたいしてもいえるようだ。
La vie sexuelle de Catherine M.(Seuil, 2001) で勇名を馳せた Catherine Millet の新刊、
Riquet à la houpe, Millet à la loupe (Stock, 2003) の冒頭が、自分の名前の発音についてのエピソードで始まる。(彼女の本は、日本語では「カトリーヌ・ミエ」の名で訳されているが、Milletの名は、画家のMilletの例があるように、ミレ(ー)と発音することも可能である。というより、この姓はその大方の出身地の北部の発音ではミレで、それがパリに来くるとミエになるということだが、最近はマスコミでも「現地音」に気をつかうようになっているらしい。TVでカトリーヌ・ミレと発音しているジャーナリストもいた。)彼女は、ジャーナリストに判で押したように、「ミエですかミレですか」と聞かれるという。本人はだいたいはミレと発音するが(j'ai tendance à prononcer ...)、どちらでもいいので、あまりしつこく決定をせまられるような質問がわずらわしい。そこで思いついた答え方が、「父はミレと発音していました」。この答えで、どのジャーナリストもそれ以上質問を重ねることがなくなったそうだ。どちらにせよジャーナリストがそうした問題に無関心でいなくなったということをうかがわせる。
「綴り **** という名は、フランス語では(=パリでは)は×××と発音するのが正しい」式の言い方を、フランス語を知っている人間が知らない読者向けにしているのをときどき目にすることがあるが、地方読みが積極的に認められて来た昨今、通常のフランス語の正書法だけを念頭に、断定を下すのは危なくなってきている。
MSG: 17
on Sun 22 Jun 2003
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松本さんの最新エッセー
松本さんのサイトに、新しいエッセー
「ロベール・フォリソン、ネルヴァルを読む」が掲載された。
掲示板の予告で、フォリソンの名を見たとき、一瞬とまどった。松本さんはフォリソンの歴史修正主義者としての活動を彼の文学関係の論文を読んだ後から知ったといい、
kanjikan さんは、松本さんの今回のエッセイで初めて知ったというが、私はまったく逆で、歴史修正主義の論客としてのフォリソンは知っていても、彼がこういう畑で活躍していたということは松本さんの文で初めて知った。掲示板でフォリソンの名を見たときに、一瞬、同名の別人かと思って、検索をかけてはじめて納得したくらいである。kanjikanさんの「実は年が分かるんで...」とは逆に、こちらは、いかに新参者かということの白状のようなものだが、私がフランス語をまともに読みはじめたときには、フォリソンの書くものは、本人やその仲間がインターネットで発表する歴史修正主義的主張とその論敵の批判において読めるだけであり、改めて今いろいろな情報を眺めてみると、専門の学者としては公の世界からは締め出されたあとだった。そういう状況の中で私が知るフォリソンは、何が専門か知らないがリヨンの大学にポストを得ていた学者で、それを利用して「なかった説」を広めている人間であった。
上のような事情から、文学関係の領域のものでも彼の著作を積極的に引用する人もいないし、再版の見込みもなければ、図書館でも一般市民向けのところでははおおっぴらには置き難いと察せられる。松本さんに教えられなかったらランボー、ネルヴァル、ロートレアモン論などについては知るよしもなく、いわんやその中身については、幻のままであったろう。ネルヴァルの「廃嫡者」「アルテミス」のフォリソンの読みについての松本さんの丁寧な解説はまことに貴重である。フランスでは今極めて発表しにくい題材なので、日本語が読めるということはこの場合一つの特権である。もちろん、松本さんは極めてバランスのとれた政治的配慮を行なっている。そしてフォリソンの著作を扱うにあたってのやっかいさも伝わってくる。
松本さんの言うとおり、彼の読みは確かに「腑に落ちる」ところも多い。ネルヴァルの読みに関連して彼のとるテキスト読解にあたっての立場も、ある意味でまっとうだ。検索してみると、彼の読みの立場について、
本人がさらに一般的に解説している最近の文がみつかった 。
これは中等教育に関連して書かれているが、作品を作者・外的な歴史的文脈から切り離して読む、作品を内部で論理的に一貫したものととらえて内在的に読む、解釈の一義性を(とりあえずは)追求する、などという立場はある意味で健全である。作者が何を言おうとしているか?と問うのでなはなく、このテキストは何を言おうとしているか問うべきであるという主張や、テキストを常識的な言語の枠内で理解する手段としてのパラフレーズの効用の見直しの提唱なども、文学についての教育の方法としてはまっとうである。個人的には私自身の感性に近い。ただこういう、常識的な方法論を、自分だけのオリジナルなもので、しかもアカデミズムの主流から排斥されているといわんばかりの主張はいただけない(学者としては悪くないスタートを切り、大学教師として最後のところは身分を保証されていた人間が、「大学人」や「教育省」に対してルサンチマンたっぷりのレッテルばりの批判を投げかけるのは、滑稽であるが、それは政治的立場から排斥されている不遇からくるものか、それとも、それ以前に溯る彼のスタンスにあるのか?)。また、内在的な解釈を強調するあまり、自分も分析の手段に使っているはずの語の間テキスト性への視点までをも切って捨てんばかりの勢いになっている。さらには解釈への洞察を得る自分の方法を "le yoga des lettres" と名づけるのは、 方法論を科学的に開陳するかわりに、ことさら「秘儀的」に見せかける戦略に他ならない。いちばん問題なのは、上にあげたようなきわめて常識的、健全な方法論を彼が「文学的修正主義」と名づけていることである。彼の政治的立場さえなければ、解釈の第一のステップ、教育方法として、積極的に評価されたかもしれない立場が、彼の現在の評判と、彼自身が積極的に貼り付ける「修正主義的」な名称とともに、うさんくさいものとなってしまう。これでは、文学作品について、「...を読み直す、réviser...」という言い方もおちおちできなくなってくる。
専門的業績と著者の政治的立場は、後者が前者に侵入していない限り、切り離して評価されなければならないのは当然のことだ。が、その当然のことが極めて困難だ(さらに困難な、文学作品の評価と作家の政治的立場に関してのJ.ポーランは孤軍奮闘はほとんど不可能なものへの戦いといえるほどのものだった)。その困難さをフォリソン自身の立場が、いっそう大きなものにしている。政治化の罠を避けるためには具体的な例を伴って論じるしかないだろう。一般的なことしか言えないが、私にとって、ランボーの母音の解釈は、解釈の一つとして魅力的に思える。ネルヴァルについては、読解の最初のステップとしては、健全だが、松本さんの言うように、彼の「論理」はあまりに狭すぎる。作品中の言語に表明された「論理」だけが文学作品の論理ではないだろう。それを超えたところにもなにか「論理性」があると感じるが故に、記号論やら精神分析(個人的に趣味じゃないが)やらを動員してそれを掴もうといろいろな人間が努力している。そうして捉えられた論理構造が作品の言語と連続しており、作品を読むものがその言語を通して理解できる限り、それは正当化できるはずで、フォリソンが『廃嫡者』に関して自分の解釈を通して提唱する「3極構造」とて同じ条件下にある。
2週間ほど前に別の本を探しながら目についてつい手にとったネルヴァルについての研究書の中で『廃嫡者』の内的構造を記号論的なアプローチで30ページほど延々とやったものがあり、文体、シンタックスなどあらゆる言語事象をてがかりとしていた(全てのレファレンスを失念。今度また調べます)。グレイマス流の分析タームがもろに出てくるのに辟易したので(こういうものに辟易するということでは私もフォリソンに近いが、ただ私自身はそういう手法の必要性は否定しない)、ちゃんとは読まなかったが、作品の内的連関に対して精緻かつ一貫した解釈を与え、作品に豊かなイメージを与えるという試みの一つとして見るべきものがあるように思われた。惜しむらくは専門化だけを対象にしたその記述方法。あらゆる分野で学問的分析とエッセーを繋ぐ必要がますます出てきるようだ。「腑におちる」分析を何も、フォリソンの「修正主義的」分析の専売特許としておく必要はない。そして、専門家がもっと(まやかしでない知識と洞察に支えられた)エッセーをもっと書いてくれるのを待つ間、私たちのような素人愛好家のおしゃべりも、読者の側からの誘い水として意味があるかも知れない。
MSG: 19
on Sun 22 Jun 2003(CET)
by Autel
Subject: momentanément
上のラフレシュによる『マルドロールの歌』の注釈によると、スペイン語の影響はすでに、「第一の歌」冒頭から見出される。
Plût au ciel que le lecteur, enhardi et devenu momentanément
féroce comme ce qu'il lit (天よ願わくば、読む者が鼓舞され、しばしこの歌と同じく勇猛となって...)
の momentanément はフランス語の通常の意味「しばし」ではなく、スペイン語の momentáneamente の第一義「ただちに、すぐさま」の意味に解するのが順当だという。
たしかに、意味としてはよく通りそうだが、この注釈の論証は徹底していない。彼が提出している、スペイン語仮説にもとづくこうした一連の解釈は、重要なものとして評価されているのか、それとも奇説の扱いを受けているのか、専門家の意見を聞いてみたいものだ。
彼の読みに、ただちにのっていいものか、しばしのってみるのがいいか...どちらにしても他の注釈(例えば、enhardi et devenu féroce は ダンテさらにはミルトンの使った表現から)と合わせても楽しめる。
MSG: 20
on Thu 03 Jul 2003
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Autel
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植物の婚礼
かぐら川さんの日記
「めぐり逢うことばたち」でリンネの名を見てふと思い出した彼の文があった。引こうにも手元にないのでGoogle探偵に働いてもらった結果、部分的な仏訳と独訳がみつかる。
花びらそのものは生殖には寄与しないが、そのための唯一の婚礼の褥となる。それは造物主がみごとに用意した床だ。これほどに高貴な帳で飾られ、甘い香りをこれほどにもたっぷり散らせらているので、花婿は花嫁と婚礼をいっそう華やかに迎えることができるかのようだ。こうして床が整えられた今、花婿はその可愛い花嫁を腕に抱きしめ、贈り物を捧げるばかりだ。そこに見えるさまは、精嚢が自ら開き生殖粉を放射し、それが卵管の上に注がれ、卵子に受精するようだと言ってよかろう。
植物の婚礼序説 Praeludia sponsaliorum plantarum (1730)より
18世紀のものとはいえ科学論文としては詩的で印象に残っていた。原文は最初はスウェーデン語で書かれ、その後ラテン語でも発表されたらしい。このくだりは、最初に読んだときは日本語だったが、どの本でだったか思いだせない。花びらを女性器にたとえるのはよくあるが、ベッドやその帳に見立て、そこでまさに行為が行われているという観察はダイナミックだ。19世紀のロマン的で繊細な表現ではなく、決まり文句もまじえた即物的なスタイルだが、啓蒙の世紀の華がある(まずい重訳で申し訳ないが)。他の科学的観察の部分も読んでみたいと思うが、ネットには邦訳はもちろん英独仏などの訳も残念ながらないようだ。
MSG: 21
on Thu 03 Jul 2003(CET)
by Autel
Subject: follow up to 20
英訳は題名だけしか見つからないが、上で「序説」としてある Praeludia を Foreplayと訳したものがあった。「前戯」とはちょっとできすぎじゃないか?と思って、スウェーデン語のタイトルをよく見たら、その部分は förspel。ドイツ語のVorspielと同じだとしたら「前戯」も嘘ではない。もっともドイツ語のVorspielの意味は広いが、それでもタイトルでこれをVorspielと敢えてしたものはない。読めないながらもförspelの検索結果をみると、少なくとも今のスウェーデン語じゃ「前戯」の意味にもなるようだ。考えてみれば Prae-ludia がそもそも語源的に直訳すれば「前-戯」で、foreplay、Vorspiel、 förspelはみなその翻訳借用語のはず。それを寝床の行為の意味に限定してしまっているのは英語だけだけど、でもやっぱりできすぎだ。日本語も向こうをはって「植物の結婚序幕」とか「植物の婚礼への前奏曲」とかいうのはだめかなあ。
MSG: 23
on Thu 17 Jul 2003
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Autel
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「イタリアが好きな55の理由」
ドイツ選出EU議員に対するイタリアのベルルスコーニ首相の「ナチ」侮辱事件が収まるか収まらないかのうちに、伊経済次官のドイツ人観光客侮辱事件でドイツのシュレーダー首相がイタリアでのヴァカンスを中止した騒動、結局この経済次官が辞任し、その際ドイツの大衆紙ビルト(7月12日付)に謝罪会見をした顛末は、
あちこちで報道されている。『ビルト Bild』 を覗いてみると、普通は外国攻撃でナショナリズムを鼓舞し売り上げを伸ばすのがこの手の新聞の常なのに、今回は趣がちょっと違う。他の副次的記事も含めて、全体的に独伊仲直りに一役買うという態度。ヴァカンスをキャンセルしたシュレーダー首相を大人げないと批判したり、その後数日続けてイタリア旅行の魅力キャンペーンをやるなどの張り切りぶり。もともと右寄りだから、シュレーダー批判の材料に使いたいというのは分かるとしても、ベルルスコーニグループから金が出てる訳でもあるまいに、この張り切りようは何なのだろうとしばし頭をひねる。観光旅行産業からの広告収入はこういうメディアの大事な収入源だということに気づく。もしかして、親会社のアクセル・シュプリンガーや、さらにそのその元締め(だった)キルヒメディアの株主や系列企業に旅行会社があるのかもしれない。ドイツばかりでなくフランスでも特にそうだが、巨大メディアグループが、基幹産業をも含めて、他のさまざまな業界の企業と資本系列化している図は魑魅魍魎の世界だ。
ビルトが始めたイタリアキャンペーンで傑作というか、馬鹿馬鹿しいというか、その両方なのが、「私たちがイタリアが大好きな55の理由 55 Gründe, warum wir Italien so sehr lieben! 」というもの。もちろん「第二次世界大戦でいっしょにがんばったから」なんて物騒なのはない。「その1 イタリアの女性は誰もが女神のようだから」「その2 シューマッハーの車を作っているから」「その3 イタリア人がちゃっべーるドイッチ語は耳にとても陽気だから sie klinge so lustige, wenne sprecke deutse」などとくれば、だいたいどんなものかわかるだろう。ドイツの芸能界ネタ関連でピンとこないのもある。55も揃えるためには、苦し紛れに全くステレオタイプかどうでもいいもの(「11 彼らのオリーブオイルはわれわれのバターより健康だから」「18 イタリア人は何よりも家族を愛するから」「23 すべての道はローマに通じるから」)や、褒めているのかおちょっくているのかわからないもの(「20 イタリア人は意味のない交通標識は笑ってすっとばすから」「26 ヴェネチア人は街が水浸しになっても歌っているから」「50 フィアットも一応錆びるよりは速く走るから」)のようなのもあるが、逆にドイツ人のドイツ観が分かってなるほどと思わせるものも。
7 イタリア人は1つの手振りでドイツ人が千の言葉で語るより多くのことを語るから
9 イタリア人は隣人が騒がしくてもすぐに警察を呼んだりしないから
21 イタリアでは女性もサッカーがどんなものかくらいは分かっているから
最後の55番はなかなかしゃれていた。
55 グラッパを3杯飲めばわれわれも皆ほとんどイタリア人だから
この「55の理由」、1ページにリストになっていなくて、Javascriptで出すポップアップウィンドウの中で紙芝居のように1件づつめくってみるようになっている。最後の55件めに行くと、更に「進む」がある。行ってみると、「私たちがイタリアにこんなにも魅せられるまた別の理由、それはこの美人女優モニカ・ベルッチ(24歳)だ」とあり、彼女のフォトギャラリーへのリンクになっている。フォトギャラリーは充実。ドイツ語に親しんでいなくてもモニカ・ベルッチ Monica Bellucci のファンなら行ってみる価値あり。
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「イタリアが好きな55の理由」 JavaScriptで開くポップアップへのリンク
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ステファノ・ステファニ経済次官の謝罪インタヴュー 「私はドイツが好き Ich liebe Deutschland」
MSG: 25
on Thu 17 Jul 2003(CET)
by
Autel
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ドイツ人が好きな50の理由
上に書いたのは3、4日前のネタによるのだが、書き込み後にビルトを再訪して、また変な続きを発見。こんどは
「イタリア人がドイツ人が大好きな50の理由」(例によってJavascriptによるポップアップ紙芝居)。これもナンセンスなのとステレオタイプの嵐だが、またまたドイツ人の自意識がわかる。
1.イタリア男性の誰もが一度は、ヴァカンスに来たドイツ人女性に熱を上げたことがあるから。
2.ドイツ人はパヴァロッティがハイCの音を外したときでも拍手喝采するから。
3.ドイツ人の母親はイタリア人のおっかさんほどには娘にうるさく干渉しないから。
4.ドイツ人はEspressoの複数形がEspressiになるということをどうしても覚えようとしないから。
5. ドイツ人女性はトップレスで日光浴するのが好きだから。
てな調子。他には、
「ドイツ人はスパゲティを食べるときビチャビチャと汚くソースを飛ばすから」(理由になるのか?)
「統計でいうと平均してドイツ人は一人頭一生に一度はイタリアに旅行する計算になるから」(やっぱり)
「ドイツの政治家はイタリアの政治家ほど頻繁に議会で乱闘しないから」(最近はイタリアの政治家もおとなしいと思うが)
「ドイツ人はテニスソックスでサンダルを履くから」(やはり自分たちでもわかるそのファッションセンス)
「経済担当相が謝罪したときすぐにそれを受け入れたから」(Bildキャンペーン)
「ドイツ娘はイタリアのアイスクリームのようにスウィートだから」(ほんとに?)
「ドイツ人はイタリアのデザイナーズブランドの服を買うのに、肌着で散歩に行くから」(確かに)
「ドイツ人はイタリア人より嫉妬深くないから」(ほんと?深く潜行するのも恐い)
「ドイツ人は二重縦列駐車をしないから」(ステレオタイプ+自画自賛)
「ドイツではずばり何でも機能しているから」(怪しい自画自賛)
etc.
少し期待して最後までめくったのに、「スウィートでナイスバディのドイツ娘フォトギャラリー」なんてものへのリンクはなかった...
(もっとも、この新聞、トップページからだといくらでもその手のページにはいける。)
MSG: 26
on Fri 18 Jul 2003
by
Autel
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スウィートで...
このノートでは検閲がかかっているので、展開しませんでしたが、
Oraclutie BBSのほうでは、Bild 紙における「スウィートでナイスバディのドイツ娘フォトギャラリー」に関連する話題が登場。もしかしてURAノートの来訪者にも、太陽のもとの健康美の賛美者がいるかも知れないと思ったので、お知らせシマス。
MSG: 28
on Mon 21 Jul 2003
by
Autel
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危険な「ツール・ド・フランス」
いろいろドラマのあった、ツール・ド・フランス第15ステージの興奮もさめやらないまま、R*** といっしょにツール・ド・フランス関係のうら情報を求めて、Googleで検索する。
tour de france というキーワードで、www.tourdefrance.com というサイトがみつかる。あれ?ツール・ド・フランスの公式サイトは、ちゃんと別にあるのに(
www.letour.fr)と思いながら、とりあえずGoogleから入る。なかなかしゃれた表紙だ。が、何か腑におちないものがある。不審に思いながら、enter をクリックして入ると、やばい! 何かスクプトをダウンロードしはじめた。やられたと思いながら、用心深くダウンロードされたものを削除する。もっともこちらのコンピュータの設定は、そう簡単には、ネットから来た得体の知れないスクリプトを実行するようにはなっていので直接の危険はないのだが。
そこでこのサイトに関して調べると、案の条、危ないサイトだった。勝手にオートダイアルのスクリプトをダウンロードし、これが誤って実行されると、勝手に有料ダイアルでポルノサイトに接続するという類のやつだ。3年前から存在し、被害者続出で問題になっている。しかしtourdefrance.com のドメイン名がよく許されているものだと思って、調べると次のような事情がわかった。
- ドメイン名所有者はカナリア諸島に住む Garcia某なるスペイン人
- tourdefrance.com はもともとツール主催組織 Amaury Sport Organisation (ASO) が所有していたが、2000年9月に、期限内に更新を忘れた隙に、このGarcia氏に取得されてしまった。
- このGarcia氏、あれこれの手段で有名企業の名の入ったドメイン名を獲得して、上記のような詐欺まがいのポルノサイトを作る常習犯である。christiandior.com、 fcbayern.com、audi.netなども持っていたという。また、背後におおがかりな組織があるらしい。
- ASO 側は、ドメイン名を取り戻すべく、またとりあえずサイトを中止させるべく裁判をおこし、昨年10月にフランスの裁判所で勝訴して、この判決はスペインでも適用されるはずだが、国際的な司法手続きの複雑さとGarcia氏のあの手この手の作戦で、いまだに、裁判所の命令が執行されるにいたっていない。
(この問題に関して、いちばんまとまった最新の解説記事は http://www.transfert.net/a9098 )
ドメイン名の再登録し忘れに注意あれというのがこの話のひとつの教訓。ちなみに、tourdefrance.comが詐欺的にリダイアルさせるポルノサイトの料金は1分で4ドルだそうだ。表紙ページに英独仏伊西語で入り口の表示があるのので世界中にひっかかった人がいるらしい。まんまとひっかかってポルノサイトまで誘導されてしまったところを折り悪く妻に見つかり、言い訳に苦労したと、ある掲示板でこぼしている人がいた。
恐いもの見たさの方へ。www.tourdefrance.com のURLで表紙ページを表示するところまでは安全です。ただし、そこに表示されている entrez、 enter などをクリックしてはいけません(どうしてもという方は自己責任で実験してください)。以上を断った上で言うと、表紙(Shockwaveを使用)はなかなかよくできています。
MSG: 29
on Tue 22 Jul 2003(CET)
by Autel
Subject: 二輪の騎士
ツール・ド・フランス第15ステージのエピソードの一つ。
最後の登りでデッドヒートが始まったばかりの局面でアームストロングがつまらない事故で転倒したが、そのときウルリッヒは機に乗じて抜き去らず、改めて互角の条件から勝負するために、アームストロングが追いつくのをスピードを落として待っていた。このウルリッヒの態度は皆から賞賛されていた(ウルリッヒは結局この直後アームストロングに抜き去られるのだが)。2年前には立場が逆で同種のエピソードがあり、この競技では名誉を重んじる者なら守る不文律 code d'honneur だという。競技全体を通してこの種の話の小さなものはいろいろあるが、今回のは優勝がかかっている2人の決定的な局面だということで特に大きくクローズアップされることになった。
大昔はテニスでも相手が転んだのにつけこんでしとめるのは下衆のやることとされたらしいが、今では転ぶ、転ばないも実力のうち、運も実力のうち、相手に情けをかけるのは逆に失礼だ、という考えが常識となっている。ほとんどのスポーツで後者の考えが浸透している今、前者の考えは滑稽、偽善的にさえ見えるほどだ。が、この競技では人々はどこかに騎士道の伝統を求め、それが要所要所で機能することを期待している。ウルリッヒの態度を形容するのにTVの解説者の使った seigneur という古風な語が印象に残った。今日のコースがスペイン国境付近だということも人々の気分やこの語彙の選択に影響していたのかもしれない。
莫大な金が動き、広告だらけで、おまけにしばらく前までドーピングが絶えず(性格は違うがウルリッヒも薬物問題を起こしている)ダーティーなイメージまでついていた競技だけに、失われ行く美風を規範としてそれを美的(=倫理的)なレベルで救いたいという人々の願望も強いということを感じさせる事件だった。
MSG: 30
on Tue 22 Jul 2003(CET)
by
Autel
Subject:
TdF、日本語のルポ・サイト
ツール・ド・フランスについての日本語での情報を検索中に、こんなサイトを発見:
Naco's Bike page
http://www.eurus.dti.ne.jp/~furusawa/j.html
情報の豊かさ、幅広さ、きめこまかさにおどろく。作者はプロのジャーナリストではなく、会社勤めの女性で、家事も忙しくこなしながらサイトを作成しているらしい。各国の複数言語の主要なニュース源にあたり、それらをきちんと選んでいる。現在ツールといっしょに移動中。オリジナルのナマのルポ、写真が貴重で新鮮だ。芸能ニュース的な情報にもことかかない。それにしてもすごいエネルギー。ツールを見ている歴史は私より短いくらいなのに、付け焼き刃のジャーナリストではかなわないくらいの精通ぶり。この分野で愛好家が趣味で作っているサイトとしてはどの言語のものも含めて比類ないものではなかろうか。ネットを検索していると、いろいろな分野で、ときどきこういうサイトに出会うことがある。それにしても日本女性恐るべし。
MSG: 31
on Tue 22 Jul 2003
by
Autel
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Parti Pris des Lettres in Yahoo News
今朝チェックしたYahoo! Japan のトップページのニューストピックス欄に
仏政府「Eメール」の呼称廃止
という見出しがあり、クリックすると、
ニュースのコンピュータトピックス欄のトップページに行く。そこでは
フランス政府、『e-mail』を『courriel』に言い換え
パリ発――フランス政府は、『e-mail』という呼称を廃止し、『courriel』(クーリエル)という名称――言語的純粋性に敏感なフランスが現在、公式文書の中で電子メールを指すために使っている用語――を採用すべきだと述べている。
...
というリードが(こちらに
記事全文)。
実はカナダのフランス語圏で以前から使われている courriel の語を正式な言い換え語に採用したということだが、上記の紹介文のすぐ下になんと、
フランス語があぶない - 英語氾濫によるフランス語への影響を記した本の書評。文字の味方 文学の味方
という紹介リンクが。
Yahooのトップページから、2クリックで松本さんのサイトのページに行けることになる。今日のアクセス数はいつもよりかなり多かったのではないでしょうか?松本さん。でも残念なことにトピック欄のトップ記事はどんどん代わっていくから、24時間後にはもう見られないかも。でもこれで多くの人が松本さんの Parti pris des lettres を発見するきっかけになったのではなないだろうか。松本さんファンとしてはうれしい朝のちょっとしたニュースであった。
うーん。いつか『O嬢の物語』がまた脚光をあびるニュース題材となって、Yahooのニュース欄に、
『O嬢の物語』、その作者についての解説。Oraclutieによる『O嬢の物語』
なんてリンクを張られることは...まずないか。
MSG: 32
on Tue 12 Aug 2003
by
Autel
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Frère Kanjikan
俳句、和歌に燃えていた「フランスの島」のkanjikan さん、どうしちゃったんでしょう。突然、「僧院に入りました」たという言葉とともに、掲示板だけを残してくださって、姿を消してしまいました。今ごろ、フランスの島にあるどこかの僧院でしょうか。それとも暑いのでブルターニュあたりの僧院でしょうか。
松本さんが言うように、私にとっても kanjikanさんは、ここで文章を書く際に自然と具体的に念頭に置いている数少ない読み手・批評者であり、また文学のいろいろな方向に目を向けさせてもらった存在なので、こちらとしては還俗を願うしかありません。または、僧院からでも「フランスの島僧院日記」をアップして、『薔薇の名前』のウィリアム修道士のような活躍を見せてくれればいいのですが。
kanjikanさんの僧院入りを知る前に、書こうと思っていたのは、猫を主題にしたkanjikanさんの俳句の連作(そのうちのあるものは写原探偵によって仏訳もされている:「メスネコの大股開き昼寝かな La chatte / Qui fait la sieste / Au grand ecart」)に関連して思い出した、越人の「うらやまし思ひ切るとき猫の恋」ついてだったのですが、「思ひ切るとき」という言葉が今度の出来事と妙に符合して、ちょっと寂しいので、その話は今度。