Histoire d'O selon Oraclutie

『O嬢の物語』の邦訳版

『O嬢の物語』の邦訳としては、澁澤龍彦氏の訳が最も良く知られており、また一般に名訳とされいる。そして現在入手可能な唯一の邦訳版である(河出書房新社により初版、その後、角川書店、富士見書房等を経て現在では再び河出書房新社から河出文庫版)。が、渋澤訳が決定版か、言い換えれば、澁澤訳が原文の細かいニュアンスのひだに最も綿密に迫った訳か、この訳だけで他の訳はなくて済むのかというと、問題は、他の翻訳書の場合と同様、そう単純ではない。

私の手元には次の3冊の邦訳がある。

(国会図書館のカタログによれば、他に清水正二郎訳(初版1960年)、千草忠夫訳があり、また雑誌連載された砂戸増造氏の英訳から重訳があるというが、いずれも未見)。

二見書房版の訳者名「中村正夫」は、同版が1975年の映画公開に合わせて再刊された際には、長島良三に改められている。「中村正夫」という名の翻訳者は、文献検索の結果でも、文芸のジャンルにはこの本以外に見出せないことから考えても、ルパン、メグレ警部シリーズの訳者として有名な長島氏が、1970年の初訳当時にこの本のためだけに用いた筆名だと考えられる。一方、鈴木豊氏は、アポリネール、ブラントームの翻訳者としても名高い。

この3つの訳書、澁澤訳鈴木訳長島訳を、原文と照らし合わせたときの評価について、私が今までに得ている結論を以下書いてみたい。

澁澤訳は私にとって思い出深い訳である。映画化以前、角川文庫本の澁澤訳に出会って以来、引越しで手放す度に何度か買い替え、今も、発行年度も装丁も違う2冊がいつのまに手元にある。10代のころのこの書の私の読書体験は澁澤の翻訳の文体と密接に結びついており、この物語の中を「吹き抜けて流れる風」を見出したのも、彼の文体を通してである。私は世にいう澁澤マニアではないが、彼の訳書を他の人に劣らず愛読したし、そしてこの書の魅力の発見に関して訳者澁澤に恩義がある。

が、邦訳から離れて仏語原文で読むようになって何年かして、澁澤訳にもどる機会があったときに、この訳に対する疑問が自然に沸いてきた。端的にいうと、原文の細かい読み違えが目立つのである。私の勘違いかと、念のため英訳を参照しても、疑問個所についてほぼ私の解釈を支持していた。そうした小さな発見はそれからさらに何年か心の隅に引っかかりながらそれ以上どうこういうこともなかったが、1999年にR***と『O嬢の物語』の読みについてメールをやりとりするようになり、原文に就いてかなり細かいところまで訳書と照らし合わせて検証する機会を得、さらに疑問が拡大していった。また、R***が読んでいたのが、当時私の手元になかった鈴木訳で、疑問個所についてこの訳とも照らし合わせることができるようになった。さらには、それまでほとんど顧みなかった長島訳も必要に応じて参照するようになった。その時に気づいた訳の問題をめぐる諸々の細かい点は必要に応じて、「『O嬢の物語』を読む」のページでも原文をまじえて順々にとりあげて行こうと考えているが、今ここで、3つの訳書の原文との関係についてかいつまんで言うと次のようになる。

まず、全体的に言って原文の読みが最も正確なのが鈴木訳である。澁澤訳は練り上げられた文体、選び抜かれた語彙で日本語において優れているのは私が言うまでもないが、原文に独特の入り組んだ長い構文の要素のかかり具合を取り違えたり、曖昧にしたまま力づくで訳した部分や、単語の意味の取り違え、実際のニュアンスを無視しした辞書的な置き換えが少なからずある。かなり急いで仕事をしなければならなかったのではないかとも疑われる(澁澤の他の翻訳、特にサドを原文と対照して読む機会が今のところ持てないので、彼の翻訳家としての力量の限界という問題について論じるのは控えたい。また誤解を防ぐために補足すると、この澁澤訳が一般的な基準から言って特に誤訳の多い本だと言いたいわけではない。ミステリーものや人文・社会科学書にはこれとは比較にならないほど誤訳だらけのものがある。あくまでも他の2訳書、英訳書との比較の問題である。また個人的な愛読書だと細かいところが気になるという点や、名訳家澁澤という一般的なイメージに見合う一段高い基準での判定という面もある)。鈴木訳は、原文の構文を綿密に把握するこに意を用いているのだが、興味深いことに、澁澤の誤訳した個所を引き継いでいる個所もまま見られる。どれほど注意しても、先行の翻訳を参照した場合、無意識に同じ間違いに引っ張られるという、翻訳作業に共通の問題がここにも見られる。長島訳は、日本語の点ではかなり流して訳してあり、原文の構文、文体にあわせての彫琢はさておいても、全体的に過不足なく意味が通ればいいという格好になっているが、明らかに英訳版(恐らくSabine d'Estrée 訳)を参照しており、澁澤訳、鈴木訳の陥った落とし穴を回避したり、より明確な訳をしている部分が少なからず見られる。

ここでこれ以上、具体的な実例なしに、翻訳批評めいたことを書いても意味がないが、要はこの3つの訳書ともそれぞれの存在価値があると言いたい。鴎外のゲーテ、坪内逍遥の(あるいは福田恆存の)シェークスピア、小林秀雄のランボーを、正確さの面での細かい疵にもかかわらず、文体の翻訳という意味では、他の翻訳家、学者の新訳よりもよしとするのと同様の立場から澁澤訳を決定版とする読者に、その意見を変えさせようというのは無意味だろう。日本語の表層の部分は少しばかり脇に置いても、細部にわたる正確な解釈こそが原文の最も深い解釈に通じるものだとする立場からは、絶版となっている鈴木訳が全体的に最も優れている。これも絶版で一般に酷評を受けている長島訳も澁澤訳の誤訳をいくつも訂正している。また『ロワッシーへの帰還』が訳出されているのはこの二見書房版だけである。「ふくろう」までの部分の物語の「意図的な破壊」をもくろんだこの終結部を評価しない人にも、その出版時の序文として作者自身によって別の視点から美しい文章で書かれた「恋する娘」は是非読んでほしいと思う。それと同時に、その訳が一般に入手不可能なのを残念に思う(『ロワッシーへの帰還』の問題、「恋する娘」についてはページを改めて詳しく論じる予定)。

すべての翻訳書の例にもれず、この小説の場合も、複数の翻訳が流通し競合するのは、原文の解釈を深める上で有益だ。その状況がこの小説について現在失われているのは残念だ。その欠を補うために、フランス語がだめでも、英語がそれほど苦にならなければ、英訳版で読み比べてみるという手もある。英語版だと『ロワッシーへの帰還』も普通に入手可能のはず。



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