Site Oraclutie

Eyes Wide Shut and Singing Stones (Story of O)

キューブリックのアイズ・ワイド・シャット Eyes Wide Shut を見た。

この文章のIntroとなった部分

この映画で、「O嬢の物語」を連想する人は多い。もちろん館での仮面をつけた饗宴の場のためだ。が、むしろ私はJ.ポーランの序文が思い浮かんだ:

「ここで、男の欲望の中にある、まさしく奇妙で、弁護しかねるものについて考えてみなければならない。風が中を吹き抜け、突然動くかと思うと、ため息をもらし、マンドリンのような音を奏でるたぐいの石を見つけたとしよう。人々は遠くからでもそれを見にやっていくる。しかし、すぐに人は逃げ出したくなる。音楽がいくら好きであろうとも。」

ここで問題になっているのは、女性が内面にかかえる欲望の深みを垣間みたときの、男性の反応だが、妻の夢語りでつきつけられたものに対するフリードリーン=ビル=トム・クルーズの反応がまさしくそれだ。

中産階級の堅固な生活基盤の上、子どもを絆に、安定した夫婦関係を築きあげていると信じている夫にとって、妻がふとしたことで語る性的幻想の夢は、それを土台から虫食む、心から追い払うことのできない得体の知れぬ何物かだった。原作では妻アルベルティーネの語りは、カップルの少しばかりスリリングな心理的戯れがふとした成り行きから思いもかけない遠いところまで行ってしまったという流れの中にあり、原作を包む文化の性における円熟をいっそうよく感じさせる。が、映画の中の現代アメリカのカップルがそこへ至るには、マリファナの力、感情の爆発が必要だ。高揚しているだけにアリスの言葉は挑発に満ちている。ヴァカンスのある日一度きり熱い視線を交わしただけの男のためにすべてを捨てることができたかもしれない、そんな幻想を、安易な日常な愛情のみせかけに安住し、あまりに自信に満ちている夫に苛立っている女が挑発として投げかける。J.ポーランがOの言葉として読み取ったメッセージがそこにある。

「あなたが驚くなんておかしい。自分の愛情をもっとよく見つめてみて。私が女であり生きていることを一瞬でも理解したなら、心は恐怖にとらえられているはずよ。そして熱い血が湧き出る大元から目をそむけたからといって、それが涸れ尽きることはないのよ。」

が、会話のさなか、医者としての仕事の義務は夫を死んだ患者の家へと呼び出していく。死者のほかにそこで彼が出会ったのは彼をもとめて熱い血をめぐらせているもう一人の女。突然歌いだした石を前に、男が逃げ場を求めるのは退廃の夜の街だ。原作では、死の冬と生の春の微妙で危うい境目に市民たちが仮面舞踏会(この街独特の呼び名でRedoute)を楽しむ謝肉祭の時期のウィーン。200万足らずの人口に4万人ともいわれる娼婦(+ここに出てくる貸し衣装屋の娘ピエレッテのようなアマチュアの存在がその何倍もいる)をかかえる20世紀初頭の享楽の都市。映画ではロンドンのスタジオセットに作られた不思議な人工光の支配する20世紀末のクリスマスのニューヨークの街だ。そして、さ迷いながら彼が逃避していく先は、無垢な若者時代の自分。若い娼婦の誘いにのり彼女の部屋へ引込まれるのも若者としての彼だ(「こんな娘に誘惑されるなんて、突然少年時代に戻ってしまったのだろうか」、とフリードリーンは自問している)。が、彼はここからも逃げることしかできない。性愛への参加が彼には禁じられているように。

さらに街をさ迷う先でその代わり彼が見つけたのは、学生時代の友人だ。友人との会話が彼を、アドヴェンチャーゲームへと引込んでいく。ゲームに熱中する少年の情熱で、アドヴェンチャーゲームにつきもののアイテムとパスワードをどうにか手に入れた彼が潜りこんだのは、秘密の性の饗宴。しかし、ここでも彼はほんとうのゲームに参加できない未熟な子どもでしかない。「ここはあなたの来る場所ではないわ」という謎の女の警告を、「あなたと一緒にでない限りここを出て行きはしない」と言って無視する彼の言葉は、未熟な青年が意地で発する火遊びの言葉にしか聞こえない。そして女の警告したとおりゲームオーバー。危機の場面でも彼にイニシアチブはない。彼が消滅を免れるのはその謎の女の犠牲によるしかない。

仏語版(La Nouvelle rêvée, trad. par Philippe Forget, LGF, 1991)の訳者はその解題で、作中人物のネーミングについて解説しており、「フリードリーン」という名は、当時の子供向けの本のヒーローで、他の文学作品でも間抜けな男として扱われ、この名は未熟な愚かさ、滑稽さ連想させるものとして用いられているとする(さらに付け加えるなら、それは「ちっぽけな安泰Fried」を意味しはしないか?)が、このあたりのシーンにいたるトム・クルーズの演じるビルはまさにそれを体現している。

彷徨にしかすぎない冒険を終えてやっと自宅の寝床に帰り着いた男が見るのは、彼女の夢の世界にひきこまれている妻。アリスは今しがたまで見ていた夢を語る。Oの言葉なら、「私の想像、私のぼんやりした夢が絶え間なくあなたを裏切っている。」ということだ。そして、アリスが言わなかったのは、「私を衰弱させて。私からその夢を追い払って。私を救い出して。私があなたを裏切ることを空想するあい間ももてないように、先手を打ってちょうだい」。フリードリーン=ビルがそのメッセージを受け取ることはない。彼が罰するために女の体に向っていくことはない。従ってそのかわり罰せられるのは彼だ。ビルは彼女の夢のために嫉妬で苦しむ。彼が受ける罰は原作ではもっと重い。原作でアルベルティーネはさらに複雑で幻想的な夢(キューブリックがこれをとりあげなかったのはとても残念だ)を語るが、その中で、彼は裸に剥かれ、見知らぬ国の見知らぬ王女の前に引き出され、鞭打たれ、死を宣告される(しかもその科は妻のアルベルティーネに不実であることを拒否することにある!)。

女のかかえる夢の世界を男はもはや理解することができない。家にいても「自分という存在を支える秩序や平衡や安定のすべてが、見せかけの嘘ものにしかすぎない」と彼は感じる。街を歩きながら、よき夫、尊敬すべき医者の仮面をかぶりニヒリスティックな誘惑者としてこの街の多くの男のように退廃を享楽して生きることを夢みるが、そこへ飛び込んで行くことはできない。彼にできるのは、自分が垣間みた夢のような現実を現実として追い続けることだ。しかしそのゲームからも彼はとっくに排除されている。すべての世界が彼の前にひとつひとつ扉を閉ざしていく。彼に残されているのは、夢のような一夜へと彼を結びつけてくれる死体安置所に置かれた女の死体だけ。

結局自宅へと帰る彼の寝床には、妻がいつのまに見つけていた前夜の仮面。彼の夢の世界がはじめて妻の夢の世界と接点を持つ。女の沈黙への誘いをふり切って、すべてを語る男。いずれにしても彼の彷徨は、彼女の空想の世界に比べれば、ほんの小さな冒険にしかすぎないだろう。彼女は自分の心の世界だけが何にもまして重いことを知っている。その世界の重みを男が理解できない限り、誤解は永遠に続くだろう。

結末を新しい関係へ向けての融和と読むか、見せかけの平衡と読むかは、読む者の間で議論が別れているようだ。仏語版についた新旧2つの違う書き手による解説自体がすでにその点をめぐって観点を異にしている。私は後者に読む。永遠に続く誤解の中で解決のみせかけはいつもその場のとりあえずのものでしかない。アルベルティーネの「ずっと先のことを考えてはだめ」という言葉はなにもかもを見透かしているようだ。そして、それぞれを包み隔てている夢の膜が少しだけ破れる、脆く短い解決の時ををアリスは知っている−−「ファック」。

すれ違いの構造は二人を越え引き継がれていくだろう。アルベルティーネの小さな娘は原作の冒頭で物語を読んでいる。24人の奴隷が船を漕いで王子を運んでいるアラビアンナイトの中の物語だ。そうして彼女は自分の想像の世界を築きはじめている。10数年もすればその夢の世界は、彼女がそのころ出会うすべてのフリードリーン=ビルに思いもよらない、広く熱いものになっているだろう。そして、この娘と同世代のフランス生まれの女性が、50年後、夢を公に語り、さらにラジカルな解決−−が果たして解決だろうか?むしろ男にとって途方もない新たな世界−−をたたきつけることになる:

「あなたは嫉妬から逃れることはできない。あなたが私を幸せに健康にし、千倍も生き生きとさせてくれたのは確かよ。だけど私はこの幸せがやがてあなたに刃向かっていくのを防ぐことができない。血の気が落ち着き、体が安まるとき、石はもっと声高く歌うのよ...私を衰弱させて。私からその夢を追い払って。私を救い出して。私があなたを裏切ることを空想するあい間ももてないように、先手を打ってちょうだい...何より、あなたの印を私の体に刻みつけてちょうだい...」



© Autel & R***
oraclutie@free.fr